カフェイン中毒な散歩者の夢想

人生のサブアカ的な何か

ツァラトゥストラの夏

ツァラトゥストラはこう語った。そしておのが洞窟をあとにした。暗い山々からのぼる朝の日のように、熱火と力にみちて」

 

ツァラトゥストラとは、ドイツの哲学者ニーチェ著作ツァラトゥストラはこう語った」を意味する。

 

この本を読んだのは2年前の初夏、仕事でもプライベートでも完全に打ちのめされていた時。ツァラトゥストラが自分を救ってくれたと言っても過言ではない。

 

読み通した後、夕立後の夏の青空を一面に臨んだかのような、そんな高揚感を味わったことを今でも鮮明に覚えている。

 

良いことも悪いことも、そっくりそのまま繰り返すとする、永劫回帰の人生を力強く肯定する超人を説いたツァラトゥストラのストーリーラインは圧倒的だ。絶え間ない自己否定に陥っていたことすらも、ツァラトゥストラを読むうえでのスパイスに過ぎなかったのだと、そんな運命的な感覚を覚えさせられた。

 

夏の本格的な到来と共に、横浜から名古屋へ転居してから、あの不思議な高揚感は消えてしまったが。

 

あの感覚を再度経験するにはどうしたらよいのか。名古屋に来てからずっとそんなことを考えている。

 

 

力を抜ければ良いのだれど

「どんな悲しみも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、耐えられる」というフレーズを思い出した。確か、ハンナ・アーレントが「人間の条件」で引用したフレーズだ。

 
このフレーズを意識してなのか、名古屋に来てからは、自分の嘆きや悲しみを代弁してくれる、そんな物語を本や映画の中に求めている。
 
現状、自分の経験や過去をフィクションの物語と関連付けさせる、肩に力の入った作品鑑賞しか出来なくなっている。古傷を抉るこの種の鑑賞方法は精神衛生上あまり宜しくないのでは?
 
作品それ自体を楽しめればいいのだが。